ふかわりょう「真夏の夜の夢・前編」

2024-08-14 HaiPress


第14回「真夏の夜の夢・前編」

扉が閉まると、汗の雫が競うように滑り落ちているのを背中に感じた。腰の起伏がなければ、彼らはどこまで行くつもりなのか。重力の奴隷となった汗は今、ちょうど下着のゴムのあたりで立ち往生しているだろう。

そのうち行こうと思っていたけれど、今日にしたのは、ポストに黄土色の封筒が投函されていたから。届いていなければ、向かったとしても車のキーを掴んだかもしれない。電車に揺られ、紙の翼から垂れる紫色のスピンが膝をくすぐる状況をイメージした私は、支度をしてペダルを漕いだ。

遅延のために車内は混んでいて、乗り込んですぐに体の向きを変えなければならなかった。掴まる場所もなく、所々に指紋が付着したガラス戸に触れることに抵抗を感じた私は、扉の衝突を和らげる黒いゴムを眺めながら、内股に力を入れていた。

文庫本を取り出す気になれず、視線は車窓を流れる家並みを追っている。互いに肩が触れ合うほどひしめき合っているが、隣の顔は見えない。茶色い髪の隙間から、ギターのピックのような顎と微かに緩んだ唇が覗いている。暗くなった車窓が映す自分の姿から目を逸らすと、液晶画面をいじる細い指に目が留まった。白い腕が伸び、その肌を、透明なプラスチックの傘の柄が噛んでいる。扉が開くたびに乗車しようとする熱風。戸袋にもたれかかる女性が、足の淵が床に触れそうなほどぺしゃんこのサンダルの上に乗って、指輪を装着した手で膨らんだお腹を撫でている。

ホームで降りては乗り込むうちに、体の火照りも落ち着き、車両が地下へ潜る頃には、車内にも余裕ができていた。


案内板を目で追いながら、乗り換えの駅構内を歩いていると、銀色のリュックを背負い、水色の扇風機を腰にぶら下げた女性の金髪が飛んでいた。尻尾のように揺れる金色の髪の向こうで、画面に囚われた二人の顔に猫の鼻や髭(ひげ)が足されてゆく。何度も方面を確認して乗り換えた車両は空いていたが、文庫本を出さずに、反射した車内の様子や吊り革の連なりを眺めていた。普段利用しない電車の吊り革の形は、異なる文化に触れるようだった。中吊り広告が寂しそうにしていた。

野良犬に餌を与えるように小さな紙片を差し出すと、ぺろりと飲み込んで尻尾を振る改札機。北口の文字を見つけ、覚悟していたほどは長くない階段を上ると、夏の日差しが仁王立ちしている。今日が、真夏であることを思い出した。

ビラ配りする女性の汗と、ドーナツの甘い香りを過ぎると、大きな街道に敬礼するように店が軒を連ねている。20年ぶりだろうか。それくらい間が空いてしまったのは、地理的なものだけではないだろう。はまれば北緯66度の島でも通うのだから。それでも、昨今のスパイスカレーではなく、麺を選んだのはやはりあの味の記憶があったからだろう。すでに出汁の匂いが鼻を刺激しているが、これは他の店舗だと区別できるくらい、出汁が個性的だった。


やがて、求めていた文字を見つけると、白い暖簾の下で男性二人が座っている。暑熱が人の列を散らしてくれたのか。狛犬のように佇む白い箱に野口英世を生贄として捧げ、大通りに背を向けるようにガードレールに寄りかかって味を想像する。一人、店を出れば、一人、店の中に吸い込まれ、新たに一人が列につく。そんなリズムに乗って、時折、女性従業員が登場しては、食券を確認し、不安定な日本語で、「オマチクダサイネ」と歌う。

扉を閉め、丸い椅子の下に隠れた、白いプラスチックの器にショルダーバッグを投入した私の目の前には、すでに黄金色の湖が輝いていた。

立ち込める湯気の中で、パンパンパンと音を立てながら、トランポリンのように網の上を跳ね、湖の中へ飛び込むワンタンや麺の束。裸婦のように横たわる、漆黒の海苔。今、この地を代表する一杯の芸術が湯気を上げている。胡椒も振らず、レンゲで啜ったスープは20年前の記憶を呼び起こした。「裸婦」もいつの間にかくしゃくしゃに犯されていた。

指先や口の周りを光らせ、暖簾を潜ると、外気の熱と体内の熱が共鳴した。コップに注がれていた水で流さず、口の中に出汁の風味を残したまま駅へ戻ると、一本左に逸れる道がある。薄暗いアーケードが伸び、その出口で光が待っている。左右の昭和の彩りに呼び止められながら通り抜けた。

線路を潜るように階段を降りて登ると、そこには眩しい世界が広がっていた。

北側に比べ、鮮やかな色合いの看板が連なり、行き交う人や、無数の音が混ざり合って、「賑わい」を醸し出していた。そういえば、さっきから左足の甲に痛みを感じる。履き慣れていないわけではないのに。普段、こんな風に歩くことがないせいか、デッキシューズの革の縫い目に皮膚の薄い皮が怯んでいた。

付近にあったドラッグストアは、ドアもなく開放されているので、期待するほどの涼しさはなかったが、正方形の絆創膏を調達し、枝を移る小鳥のように書店に入ると、何人もの警官の塊が鎮座し、何かが起きた後のようだった。そんなことを知っているのか、外国人の笑顔とたわわに実った乳房が言葉の海に浮かんでいた。

横断歩道で囲われた小さな交差点に出た。ベージュの壁には、煤けた室外機が蝉のように留まっている。左端に浮かぶ赤い月に向かって階段が伸びている。

道路を渡り、鬣(たてがみ)のような緑の束の間を通った。白く塗装されたコンクリートの壁と灰色の階段が蛍光灯に見守られ、焦茶色の木製の大蛇が冷たい壁を這っている。踊り場で灰色のシャッターが黙っていた。私は階下に流れる光の河と、門をつかさどどる、緑の束を眺めていた。


次回は、8月28日(水)10時公開予定です。

連載「東京23区物語」は、フィクションとノンフィクションが交錯する、23個のストーリー。ふかわりょうさんの紡ぐ、独特な世界をお楽しみください。記事一覧はこちら

◇PROFILE

ふかわりょう


1974年8月19日生まれ。神奈川県出身。


長髪に白いヘア・ターバンを装着し、「小心者克服講座」でブレイク。「あるあるネタ」の礎となる。現在はテレビ・ラジオのほか、執筆・DJなど、ただ、好きなことを続ける、49歳。


3月に小説『いいひと、辞めました』(新潮社)を刊行。その他の著書に『スマホを置いて旅をしたら』(大和書房)、『ひとりで生きると決めたんだ』(新潮社)、『世の中と足並みがそろわない』(新潮社)などがある。

レギュラー


TOKYO MX「バラいろダンディ」毎週月曜~木曜21:00~21:54


Fm yokohama「ロケットマンショー」毎週火曜日深夜2:30~3:00(Podcast毎週水曜7:00更新)


TBS「ひるおび!」第3・5水曜11:50~14:00

オフィシャルサイト http://happynote.jp/index.html


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